寄稿文(縮小版半生記)「CD,Happy Birthdayは私の言葉です」 サブテーマ:『業』と『行』
「群馬弁護士会会報」に寄稿してから約8ヶ月が過ぎ,コロナ禍のなか,陽だまりのようにぽっかりとできた時間に「徒然なるまま」書く機運が生まれました。 「CD,Happy Birthdayは私の言葉です」と題した寄稿文は,齢(よわい)65歳をえた私の幼いころからの人生を振り返ったコンパクト版自伝ですが,これを書いたことで何かが吹っ切れた感じがしました。この寄稿文は,昨年秋から半年かけたCD制作を契機に,これまでは「正業かつ生業」である弁護士の「趣味」の音楽から脱却して,自身を音楽家と標榜するようになった理由を余すことなく記したミニチュアサイズのエッセイです。 ところが,配布された会報を読んで,数え切れないくらい推敲して気付かなかった間違いに気づきました(編集に当たった数名の後輩弁護士に気付いて欲しかったですがそれは望むべくもありません)。
私は,音楽スタジオで体験した「神聖で静謐な時間と空間」を「仏教の『業』に近い境地』と表記しましたが『行』の間違いです。「業(ごう)」は否応なく人が人であるが故に宿命的に背負うものであって,声高に誇らしくいうことではありません。「修業・修行」と2字熟語にすれば同じ意味をもつ言葉として通用しますが,これらは深いところで大きな違いがある言葉でここでは『修行』の方が正解です。 言葉も音楽の音と同じく芸術等の表現において大切な媒体と心得ているはずの私は当然自己嫌悪に陥り,恥ずかしくて穴があったら入りたい心境でしたが,『業』と『行』には大変意味深い密接不利の関係にあることが分かり,このミス自体にも意味があったのだと得心し,それを記しつつ寄稿文をブログにアップすることにしました。
広辞苑によると,「修行」は,托鉢などをして悟りを求めて仏の教えを実践することで,悟りを求めて修行をする『行(ぎょう)』と同じ意味とともに,精神をきたえて学問や技芸などを修めみがくという意味もあります。一方,「修業」は,もっぱら学問や技芸などを習い修めるという意味で使われます。殆ど同じ意味を共有する二つの言葉ですが,「行」には,仏教の修行の意味合いが強い点が大きな違いです。さて,ここまではこの二つの言葉がもつ意味の違いの説明ですが,次は,両者の因縁的といえる関係性の話です。『業』は,「ぎょう」と読めば,「修業」「神業(かみわざ)」で用いる技術の意味の意味ですが,もう一つ「ごう」と読む場合の意味は一味違います。「業(ごう)が深い」というのがそれで,この「業」は「悪い因縁」のことです。
「彼は業(ごう)が深い」は,悪いことと分っていてやってしまう人のことを他人が評して言います。人が自らの意思や意識に反して誘惑に負けて行動してしまうという誰にでもありがちな行動様式ですが,特に根が深く重大な場合に登場する表現です。つまり,そういった「心」の有り様を「心」で変えることはできない,そんな「心」を変えることができるのが「行(ぎょう」で,「修行」という方法で,主に仏教や神道の教えで使われます。「業(ごう)」を「行(ぎょう)」をもって修めていく,「修行」によって「業(ごう)」が清められ,浄化されていくという関係になります。「業」を克服する「修行」の手段として「修業」するという言い方もできます。こうして「修業」は必ず「修行」に繋がっていきます。
こう考えてくると,私が「修行」と「修業」を間違えるという,うかつで無神経としか言いようのない間違いは,決してトンチンカンでなく,この「業(ごう)」との裏腹で深い関係性が原因していると直感しました。「業(ごう)」を抜きにした「行(ぎょう)」という言葉の物足りなさに,つい,「業(ごう)」の意味合いを込めてしまったようです。
元々,音楽の「修業」には,「行」の意味があり,特に,高いスキルを前提とするクラシック音楽の世界では,目先のことは何も考えずひたすら毎日毎日同じ事を続けることは「苦行」そのものです。しかも,正しい練習をしないと逆効果である点では,むしろ,職人的な「修業」側の要求が強く,両方の要素が満載です。大人は勿論,子供でもある程度成長した段階では無理というのが業界の定説ですが,昨今,「大人の・・教室」がもてはやされるのはその裏返しです。音楽表現の前に,うんと基礎練習をしなければならないのに,大人はすぐに見返り(結果)を欲しがりますから,「なんちゃって」でなく極めていくのはごく例外を除いて殆ど無理です。私自身は,このような「音」を出すための基礎練習には,キリスト教の「祈り」のイメージをもっています。
芸事の世界ではこのような努力を続けることができること自体が才能で,これを5年,10年と続けられたら,必ず,結果があとから出てきます(出方に脈絡がなく諦めた後のタイミングで出がちという法則もある)。私は,筋肉と一緒で,「練習は裏切らない」の名言をここで残します。
だから,スタシオで経験したのは,これまでに経験したことのない「神聖で静謐な時間空間」で,それは「業」を乗り越える「行」であったと思えるものでしたが,私がその時に得た感覚がCDという形となって残っていることは基本的に凡人であり,生活者として「業」にまみれている私にはとても有り難いことです。一時期は呪詛したこともありましたが,今は『音楽の神様』に感謝しています。
この寄稿文を会報で読んだ人は群馬弁護士会会員と裁判所等職員に限られ,ごく少数だと思いますが,このブログで初めて外部に出た形になります。万一,寄稿文を読まれる方にはこのブログを一緒に読まれますことを祈念します。